『百年の孤独』と『「百年の孤独」を代わりに読む』

年末年始休暇中に『百年の孤独』を読み終えました。

ガブリエル・ガルシア=マルケスのこの本が新潮文庫から刊行されたのが2024年6月26日でした。この発売日から数日後、私は大学時代を過ごしたある地方都市にいました。

実家があるわけでもなく、卒業後にだいぶ離れた別の街に職を得ていた私は、ちょっとした用事ができ、数十年ぶりにこの地を訪れたのです。

市の中心部にある書店は大学時代と変わらない佇まいで、それまで脳の奥底で眠っていた記憶たちがするすると浮かんでくるのをひとり味わっていました。

なんのあてもなく本棚を眺めて、ああ、この土地ならではの本がこの一角に集められているのだな、とか、やっぱりどこに行っても売れどころは同じだよな、とか思っていたら、文庫コーナーに並んでいる『百年の孤独』を見つけました。

おお、これが噂になっている本ですか、と手に取り、表紙のジョセフ・コーネルの箱みたいなかっこよさに痺れつつ会計カウンターに持って行ったのでした。

出先で本を買ったり読んだりするのはエピソード記憶として強力で、パラグアイで読んだ「フロスト」警部シリーズだったり、伊香保温泉の旅館で読んだ「痴人の愛」だったり、いまだにその旅行の記憶とともに残っています。

後日、伴走によさそうとの『「百年の孤独」を代わりに読む』を手に入れて、別の本に移り気しながらもこの2冊を1章ずつ、少しずつ読み進めていました。働いていると本が読めないのはみんなが実感するところで、年末の休みに入ってからはあっという間に完走したのでした。

おそらくラテンアメリカのどこかにある土地、マコンドを開墾していく一族の歴史と数奇な運命を読み手と共に長い時間をかけて辿る物語です。ガブリエル・ガルシア=マルケスの風変わりな著者写真であったり、一家で名前を共有するするために登場人物が誰が誰だかわからなくなって時々参照する、でもあまり参考にならない冒頭の家系図だったり、エピソードに突然、違和感なく挟み込まれる超常現象など話題が尽きない本でした。

ラストで読者だったはずの自分が一気にこの一族の物語に取り込まれ、もはや傍観者ではなく当事者なったような感覚は、子どもの頃にミヒャエル・エンデ『はてしない物語』での体験を彷彿とさせました。自身も研究者として論文を書いて出版することで生きる身ではありますが、伝えたいことをなんらかの文章として形に残す行為の尊さを改めて感じるシーンでもありました。人ひとりが生きる時間の短さと儚さをに圧倒されつつも、それでも確かにそこでその時代を生きていた人たちがいたことに思いを馳せながら。

投稿者: Naho KONOIKE

大学の研究室で脳の研究をしています。このサイトでは、研究活動の紹介とともに日々感じたことなどを綴っています。このサイトのコンテンツは個人の見解であり、所属する機関とは関係ありません。

コメントを残す