<責任>の生成 中動態と当事者研究

ここしばらく、隣接する市の図書館に通っています。取り揃えている本も図書館によってそれぞれ違うので、ときどき別の図書館に行くとたのしみが増えます。

最近、借りて読んだ中でよかったのは劉 慈欣『円 劉慈欣短篇集』、カズオ・イシグロ『クララとお日さま』でしょうか。また、『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』はしばらく手元に置いておきたくてその後、書店で購入しました。

この本は哲学者の國分功一郎さんと小児科医の熊谷晋一郎さんの対談という形をとっています。とはいっても冒頭に書かれているようにこれは2人の研究者による「研究の記録」であり、濃密なやりとりが収められています。國分さんの著作『中動態の世界』ではアルコールや薬物依存症患者さんの体験を紐解きながら、受動とも能動ともいえない状態、中動態的枠組みで「意思」を考える試みをおこなっています。後半の哲学の考古学パートは素人にはなかなかむずかしかったのですが、言語体系は思考にも大きく影響するのだなあなんて思った記憶があります。

『暇と退屈の倫理学』では、精神科領域の医学的なことがらには敢えて踏み込まずに書いた、とのちに國分さんは話されていました。が、今回の本では、脳性麻痺で車いすユーザーでもある熊谷さんとの対談を通して、自閉症スペクトラム障害を抱えつつ自身も研究者である綾屋紗月さんの体験も引き合いに出しつつ、國分さんの提唱する中動態的な考え方が身体的・精神的疾患をもつ患者さんの症状や生き方をどう理解し、助けることができるのかという部分まで踏み込んでいました。この点が大変興味深かったです。

「自由意志」や「予測誤差」「サリエンシー」など神経科学で馴染みのあることばも登場し、異なる視点からこれらの概念を眺めることで新たな発見もありました。

話し合いながら、書きながら、少しずつ考えがまとまっていったり少しずつ理解が深まっていく、自分のブログにも通じるそんなプロセスを一緒に感じることができた読書体験でした。

ヤン・シュヴァンクマイエル「オテサーネク 妄想の子供」

チェコの映画監督であるヤン・シュヴァンクマイエル(1934-)は、実写とアニメーションを融合した独特の作品をつくっています。これまで、不思議の国のアリスをモチーフにした長編映画『アリス』と、ヨハン・ファウスト伝説を基にした長編映画『ファウスト』は観たことがあったのですが、先日、2000年発表の『オテサーネク 妄想の子供』をはじめて鑑賞しました。

オテサーネクはもともとチェコの民話で、ひとを食べる切り株が登場します。不妊症に悩む夫婦がアパートに住んでいます。今回も赤ちゃんを授かることができずに塞ぎこむ妻。夫婦は隣人の勧めで別荘を購入し、週末はそこで過ごすことにします。あるとき、夫が庭から掘り出した切り株に顔や手足に見立てた加工をして妻に見せたところ…これが、怖ろしい出来事のはじまりになりました。夫婦や隣人の娘の視点から、ときに笑えてときに悲劇的な物語が進行していきます。気味の悪い食事シーンや性的メタファーなど随所にシュヴァンクマイエルらしさが盛り込まれていました。

「食人植物」はさまざまな作品で扱われています。わたしが好きな映画作品のひとつにギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』があります。この映画では、マンドラゴラが主人公オフェリアの妊婦である母親の運命を左右するものとして登場します。絵本と少女、妊婦、そして木の根に魂が宿るというアニミズム的発想…『オテサーネク』を観て『パンズ・ラビリンス』を連想したのにはこれらの共通点がありました。

映画『オテサーネク』には、切り株のオテサーネクが主人公であるチェコの民話の絵本が出てきます。この絵本を隣人の少女が朗読する形で、アパートで起きる数々の出来事と絵本の内容が交錯つつ、物語が進んでいきます。絵本は監督の妻で、映画の共同制作者でもあるエヴァ・シュヴァンクマイエロヴァが絵を描いており、実際に出版されています。牧歌的な挿絵とストーリーのグロテスクさの落差がなんともいえません!

(Amazonサイトより)
(Amazonサイトより)

チャック・パラニューク降臨

早川書房主催のイベント「パラニューク降臨!『ファイト・クラブ』作者が語る小説と世界の現在地」にオンライン参加しました。

イベント名にも掲げられているように、小説家チャック・パラニュークは、デイヴィッド・フィンチャー監督の映画『ファイトクラブ』の原作者です。作品の日本語訳があまりないのですが、最近になって早川書房さんが『サバイバー』や『インヴェンション・オブ・サウンド』を精力的に出版されています。

『サバイバー』は1999年の作品です。カルト教団で生まれ育った主人公が、教団を離れて集団自殺から生き残り、マスコミに担ぎ上げられ、そして飛行機をハイジャックするまでの半生を、フライトレコーダーに向かって独白する形をとっています。

最新作の『インヴェンション・オブ・サウンド』では主人公の映画の音響効果技師が、”リアル”な恐怖の叫び声を探求し、日々音源を収集しています。一方で、もうひとりの主人公である17年前に行方不明になった娘を探し続ける父親は、ダークウェブとよばれる闇サイトを彷徨って児童性愛者を監視しています。このふたりの人生が重なり…という物語です。

『サバイバー』は宗教2世の物語として、興味をそそられました。とくに、ちょうどタラ・ウェストーバーの『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』を読んだところで、こどもの成長期における家庭環境や暴力、教育についてずっと考えていたからです。カルト教団やサバイバリスト家庭は極端な例ではあり、問題の大小はあれども、根本的にはどの家庭でも同じ問題を孕んでいると思ったからです。

『インヴェンション・オヴ・サウンド』は自分の研究テーマのひとつでもある「他個体間での音声による情動伝播」に関係しそうだと思って手に取りました。

独特なことば選びとリズムよい文体、暴力的で残酷な描写もふんだんで、最悪の結果なのになんだか希望の光が差してくるような、なぜかよい読後感はパラニュークの作品に共通するものだと思います。

オンラインインタビューの中でパラニュークが「登場人物が最悪の状況になって尊厳を失っても人生は続くし、そこから新しいサイクルが始まる」というようなことを話していました。『ファイト・クラブ』をはじめとして、主人公を取り巻く状況や彼ら・彼女らがこれまで背負ってきたもの(これらを’STORY’とイベントでは表現していたと思いますが)と、そこからの自由、についてはパラニューク作品を貫く共通したテーマだと思います。だからこそ、絶望的な物語の中にかすかなひとすじの光を感じられるのかもしれません。

作品や『インヴェンション・オヴ・サウンド』の著者近影のイメージとは裏腹に、誠実に的確に作品の意図や創作の過程、好きな作家、ふだんの生活について話してくれたパラニューク、多くのすばらしい作品を世に出し、このイベントを企画してくださった早川書房さんに感謝です。

(そういえば、『エデュケーション』も、いま読んでいる途中の『現れる存在: 脳と身体と世界の再統合』と『みんなが手話で話した島』も早川書房だ…。

(早川書房サイトより)

「タイタニック」と精神科医

ジェームス・キャメロン監督作で1997年に公開された映画『タイタニック』が25周年3Dリマスター版として劇場で再公開されています。初回公開当時は商業的にも大成功したり、アカデミー賞の最多受賞作品になったりと、たいへん話題になりました。あれから25年も経ったのか…と感慨深くなったとともに、タイタニック公開当時のある思い出がよみがえってきました。(以下、映画の内容に触れます。)

この映画の公開から少し経ったくらいでしょうか。わたしはとある大学の医学部に在籍していました。医学部では2年次以降はとくに選択教科というものはなく、すべてが必修科目で人体のありとあらゆることをまずは座学で学びます。その日も大学の大講堂にクラス全員が集結して、朝から臨床講座の講義をきいていました。

何時間目かの精神科の講義のときです。講師として教壇に立っていた先生が、すこし講義内容とは外れた雑談をはじめました。

「映画「タイタニック」は観ましたか?みなさん、あの映画のどのシーンで泣きましたか?」

というような質問を学生たちに投げかけました。みんながざわざわしたのを見届けて先生は次のように続けました。

「やっぱり、ジャックが海に沈んでいく最後のシーンですよね~。いや、僕の(精神科に入院中の)患者さんに聞いたらですよ?「おばあさんになったローズがハート型の宝石を海に投げるところ」だっていうんですよ。びっくりしましてね、あんなシーンで感動するひとがいるなんて!やっぱり患者さんだな~って思いました。」

わたしはとても驚きました。なぜならわたしがこの映画のなかで一番感極まったシーンがまさにその老婦人ローズが”碧洋のハート、もしくは青き海の心(The heart of the ocean)”とよばれるダイヤモンドを海のなかへと落とすシーンだったからです。映画の冒頭では、かつてタイタニック号とともに沈没した、と思われているこの宝石を探しているひとびとが登場します。彼らが追い求めている「真に価値があるもの」は何か、ということはこの映画を貫く大きなテーマでもあります。お金に換算するととてつもない価値のある宝石を海へ沈めたローズの想いを考えると、彼女が「真に価値があるもの」と考えているのは何か、おぼろげながらわかってくるような気がします。それが、このワンシーンに凝縮されているのでないでしょうか。

世の中にはさまざまなひとびとがいます。好きなものやきらいなものも違うし考え方もちがう。そんなひとたちがかかわり合って社会を構成しています。価値観が異なるひとびとたちが共同体を営む上では困難な状況に陥ることも多々あります。そういうときに、違う考え方のひとを排除したり排除したりすることは簡単です。しかし、お互いの立場や考え方を理解するようにひとりひとりが努力をすることはできるのではないか。映画館で、タイタニック再演の巨大なポスターを見上げながら、大学時代のできごとを思い出しつつ、そんなことを思ったのでした。

精神科医の中井久夫(1934-2022)は統合失調症患者が示す繊細さ、やさしさ、そして人への敏感さを「心の生ぶ毛」とよび、以下のように述べています。

彼らが社会に生きる上でおおむね不器用な人であるとかりにいわれても、彼らの「心の生ぶ毛」とでもいうべきものは必ず、世に棲む上で、共感しヒトを引きつける力をもつであろう。それを世間的な意味での立ち廻り上手よりも高く評価する人間は、社会の側に必ずいると私は思う。急性期において、われわれのまずめざすべきものは患者の心身の休息であり、保存に努力すべきものは「心の生ぶ毛」であるといいたい。(「統合失調症をたどる」より)

(20th Century Studios)

「ひとまねこざる」とレイ夫妻

『ひとまねこざる』は好奇心旺盛なさるのじょーじが主人公の物語です。じょーじは黄色い帽子のおじさんにアフリカから連れてこられて、一緒に住んでいます。そんなじょーじの日常が絵本では綴られています。

夫であるH.A.レイがおもに絵を、妻のマーガレット・レイがおもに文を担当した共著です。絵本『戦争をくぐりぬけたおさるのジョージ 作者レイ夫妻の長い旅』では、残された手紙やノート、写真や知人たちの証言からレイ夫妻の足跡を辿ることができます。ドイツ出身でユダヤ人でもある夫妻は遠いブラジルで結婚します。その後、パリでクラスのですが、ナチス侵攻から逃れるため混乱するパリから自転車で脱出を試みるのです。夫妻がその後長く暮らすことになるアメリカまでの長い長い道のりを知ることができます。

この絵本には、夫妻がブラジルに住んでいるときに2頭のマーモセットをペットとして飼っていた、という話がでてきます。マーモセットは南米に生息する小型のサルです。レイ夫妻がヨーロッパに渡ったときにはこの2頭のペットを一緒に連れて行ったそうです。寒くないようにとセーターを編んで着せていたのですが、イギリスの寒さの中では残念ながら生きのびられなかった、というエピソードが綴られています。

わたしが所属する研究センターでも100頭をこえるコモンマーモセット (Callithrix jacchus) を飼育しています。もともと赤道近くアマゾン川流域に住んでいるサルの仲間ですから、寒いのが苦手です。飼育室は常に暖かくして彼らが快適に過ごせるようにしています。普段はお父さん、お母さん、こどもたち、という家族単位で暮らしており、仲間同士よく鳴き合います。たしかにかわいいですが、一般住宅でペットとして飼うのは決しておすすめしない動物です。

さて、ひとまねこざるシリーズのなかで一番お気に入りなのが『ひとまねこざるびょういんへいく』です。これはボストン小児病院の協力のもとにつくられた絵本だそうです。じょーじがパズルのピースを誤って飲みこんでしまい、病院へいく物語です。小さい頃に祖父母の家にいくと近くの公園にワゴン車の移動図書館がときどき来ていました。ここで何回も借りたことを覚えています。いま手元にある日本語版、英語版は、大学院生時代に退官された教授から譲り受けたものです。当時はまだ小さく、ラボによく連れてこられていた息子にくださったのだと思います。いま霊長類研究に携わっているのも、もしかしたらじょーじがくれた縁なのかもしれませんね。

ヤン・ポトツキ「サラゴサ手稿」

ポーランドの貴族ポトツキが仏語で著した奇想天外な物語。(岩波書店)” 

と紹介される『サラゴサ手稿』の存在をはじめて知ったのは国書刊行会の世界幻想文学大系〈第19巻〉でした。『ヴォイニッチ写本の謎』だったか荒俣宏氏の著作つながりかなにかで『サラゴサ手稿』は私のほしい本リストに入り込んだのでした。

ほしいものリストにはずっと存在しつつ、しかし買い物カートへ移動することはないまま数年が経ち、岩波書店から『サラゴサ手稿』の全訳が出る、という情報が飛び込んできました。おお、では全訳を読む前にまずはダイジェスト版といわれている世界幻想文学大系バージョンから、と思ったら、みなさん考えることは同じのようです。つい最近まで3000円ほどだった古書になんと2万円を越える価格がついていました。

全三冊で、現在は中巻まで発売されています。相変わらずさまざまな人物が登場し、さまざまな物語を語っていき、語られる舞台もヨーロッパのあちこちに飛びます。そして相変わらず主人公は絞首台のそばで目が覚めるのです。複雑な入れ子構造は千夜一夜物語やデカメロンのようで、さらに夢と現実の境界もあいまいとなり、読んでいる方もくらくらしてきます。来月には下巻が発売されるので、たのしみに待ちつつ、まだ途中の中巻を読み進めたいと思います。

ちなみにこの本が原作の1965年のポーランド映画『サラゴサの写本』はまだ観たことがありません。こちらも現在、ディスクの入手や鑑賞が困難なようです。どこかのミニシアターで上映しないかな…。

さて、訳者の畑浩一郎氏は研究者であり、日本の研究者データベースであるresearchmapにページがあります。私は神経科学を専門とする研究者で、人文学はまったくの専門外で素人です。それでもリンクから読める聖心女子大学論叢では、全訳に至る経緯やポトツキの生涯など、この物語の背景を垣間見ることができ、より作品をたのしむことができました。

ロバート・コルカ―「統合失調症の一家: 遺伝か、環境か」

先月、(少なくとも私の周囲では)話題沸騰中の「統合失調症の一族」を読了しました。
12人のこどものうち6人が統合失調症を発症したアメリカのとある大家族の軌跡を追うノンフィクション作品です。両親の馴れ初めから、家庭環境、発症の経緯やその後などを多くに資料から掘り起こした貴重な記録でした。兄弟がひとりひとりと奇妙な行動をしはじめるさまは、本人と周囲の苦悩がひしひしと伝わってくるだけでなく、そして発症していない兄弟姉妹の「私はつぎかもしれない」という恐怖も感じされてくれました。

本書では、また、統合失調症の研究の歴史についてこの家族が果たした役割にも触れられています。統合失調症のメカニズムの一端を研究している同じ研究者として、同書に登場する医師、研究者たちの研究の上に、現在の統合失調症研究が成り立っていることを改めて感じました。

それぞれの兄弟が、異なる疾患と診断されたり、診断名が時間を経て変わっていく記述も興味深いものでした。ある兄弟は統合失調症、別の兄弟は強迫性神経障害、そしてあるときは躁うつ病(双極性障害)などなど…。同じ遺伝子情報を持ちながら、異なるストレス要因によって出現する症状もさまざまであること、診察時に示す症状によって診断名が異なること、など「統合失調症とは本質的にどういう疾患であるか?」という大事なことを改めて考えるきっかけを教えてくれる本でした。

この重厚な物語の最後に描かれていた、次世代へと繋がれたバトン。本書でも重要な役割を果たす家族の末妹の壮絶な人生と重なり、熱いものがこみあげてくるのを感じつつ、読み終えたのでした。

「ゼロの未来」と「未来世紀ブラジル」

2013年に製作されたテリー・ギリアム監督のSF映画『ゼロの未来』を観ました。荒廃した都市とネットワークによる監視社会、サイケデリックで風変わりな登場人物、とテリー・ギリアム・ワールド全開な作品でした。

近未来世界。世間になじめない天才コンピューター技師コーエン(ヴァルツ)は、謎の定理を解明する義務を任される。荒廃した教会に一人で住み、定理の解明と人生の目的を知る為、ある電話を待ち続ける。(Filmarksより)

仕事で追いつめられる中高年の男性主人公が若い奔放な女性と出会うことにより人生が変わっていく、という構造は1985年公開のテリー・ギリアム監督の映画『未来世紀ブラジル』と同じです。ただ、監督はインタビューで、「ゼロの未来は未来世紀ブラジルと比べられたくないから、ユートピア的なイメージを多用した」というようなことを述べていました。とはいっても主人公の住む焼けた教会のなかにはテレワークを監視する赤外線カメラが何台も取り付けられ(ひとつはキリストの頭部として!)、街中は荒れ、充分にディストピア感は出ていました。

『未来世紀ブラジル』では街を覆うダクトが印象的で、ロバート・デ・ニーロがコミカルなダクト修理屋役としても登場しました。このダクトっぽい何かがやはり『ゼロの未来』でも登場します。以前、仔のブログで紹介したことがある長編クレイアニメーション『JUNK HEAD』の背景もスチームパンク的な管が張り巡らされ、めちゃくちゃかっこよかったです。壁を伝うたくさんの配線や配管って魅力的ですよね…

1977年にテリー・ギリアムが製作した映画『ジャバーウォッキー』は、名古屋のミニシアターで今年の夏にリバイバル上映されていました。上映はたった7日間のみだったので、うまく予定を合わせて観に行くことができませんでした。とても残念…。Jabberwockは、ルイス・キャロルの小説『鏡の中のアリス』に登場する本に書かれた詩のなかに登場する生き物です。私の手元にある新潮文庫の矢川澄子・訳では邪婆有尾鬼(ジャバウオッキ)と当て字がされています。ほかにも訳者によって様々な漢字表記のバージョンがあるようです。この生き物について多くは語られず、その謎めいた存在ゆえ、後世のクリエイターたちを魅了しつづけ、その後のたくさんの作品に登場することになるのですね。

(公式ポスター

「エコール」と「エヴォリューション」

映画「エコール」と「エヴォリューション」が同じ監督の作品と知らずに立て続けに観ました。これも何かの縁かと思い、文として記録に残したいと思います。

ルシール・アザリロヴィック(1961-)はフランスの映画監督です。「カルネ」で有名なアルゼンチンの映画監督ギャスパー・ノエとは公私ともにパートナーだそうで、彼女自身も編集・制作に関わっているようです。知らなかった…。「カルネ」は雑誌ダ・ヴィンチの初期の特集号に掲載されていた紹介文が強烈で、高校生だった自身の記憶に残っている映画です。でも、その印象が強すぎて、怖くて映画はまだ観ることができていません。

「エコール」は2004年制作の映画で、森の奥にある寄宿学校で少女たちが暮らす話です。なにかが起きそうで危うい彼女たちの日常が美しい映像で描かれます。ちなみに、原題は無垢を意味する「イノセンス」でしたが、押井守監督の映画と混同を避けるために、学校を意味する「エコール」に改題されたそうです。

一方、「エヴォリューション」は島に住む少年が主人公です。母親から謎の液体や緑色の得体のしれないものを食事として与えられたり、病院で謎の検査をされたり、冒頭から嫌な予感しかしません。来日時の監督のインタビューでは、幼少期に盲腸の手術をしたこと、見知らぬ大人に自分の身体をいじられた(=開腹手術された)体験がものすごく記憶に焼き付いた、というようなことを述べています。このような体験を通じたこどもの気持ちの揺れ動きのようなものが作品にうまく反映されているように思いました。

谷川俊太郎・作、長野重一・写真の「よるのびょういん」も、こどもの目線から病院を表現した作品です。ゆたかくんが高熱と腹痛でよるのびょういんへ搬送され、手術をするお話です。一連のできごとがスピード感のある写真で表現されていて、そこで夜な夜な働く人たちの仕事が紹介されている、こどもの頃から大好きな絵本のひとつです。でも、小さかったうちのこどもたちに夜寝る前に読んであげようとすると、「この本怖くていや~」と断られるのがお決まりでした。無影灯を手術台から見上げるアングルはたしかに自分が手術されるようでドキドキしますね。

2つの映画は主人公の性別は違いますし、エヴォリューションはややファンタジー色の強いストーリーですが、閉ざされた空間で生活を余儀なくされる少年少女の身体と心の成長と、息苦しさ、そして不安が美しい自然とともに共通して描かれているように思いました。

京都国際マンガミュージアム

数か月前になりますが、京都国際まんがミュージアムを訪れました。京都市とマンガ学部がある京都精華大学の共同事業で、博物館のような図書館のような文化施設です。約30万点の資料が保管・管理されており、そのうち5万冊のマンガは管内で自由に閲覧できるようになっています。

訪れた日は良い天気で、大きな中庭の芝の上に寝転んだり、パラソルのあるベンチに座ったりしつつ気になる作品を読む2日間を過ごしました。

ちょうど「描くひと 谷口ジロー展」が開催されており、原画約300点を見ることができました。漫画家谷口ジロー(1947-2017)は人気ドラマ『孤独のグルメ』の原作の作画で知られています。

私は関川夏央原作・谷口ジロー作画の『事件屋稼業』が好きで、今回も原画をみたりマンガ作品を読んだりして谷口ワールドを満喫しました。主人公は探偵・深町丈太郎。レイモンド・チャンドラーの短編集のタイトルでもある「Trouble is my business」をモットーにしており、フィリップ・マーロウ日本版、といった作品です。

ちなみに、このところ作品がつぎつぎ映像化されている山形出身・在住の小説家・深町秋生さんの「深町」もこの作品由来なのかな…と勝手に妄想しています。大学時代の6年間を過ごし、親族も長年住んでいた山形の話題はいまでも気になります。

話はそれましたが、マンガミュージアムの建物は、かつて小学校校舎として使われていた昭和初期の木造建築です。使い込まれて黒光りする木の階段や石造りの重厚な手すりなどは、学校の面影を残しています。すっかり記憶の奥底に沈んでいた、中学校のとき一年間だけ過ごした木造の旧校舎を思い出させてくれました。