猪熊弦一郎のおもちゃ箱

猪熊弦一郎は昭和期を代表する洋画家の一人。「絵を描くには勇気がいる」が口癖だった猪熊は、具象から抽象へ、更に両方が融合した形態へ、常に新しいものに挑戦し続けた画家である。(NHK人物録より)

しばらく前のことですが、書店でふと目がとまった「猪熊弦一郎のおもちゃ箱:やさしい線」を購入しました。作品集なので、初めはぱらぱらカラー図版を眺めていたのですが、合間に挟まれている文章が思いのほかおもしろく、最初から最後まで読んでしまいました。

ぺリアン夫妻や藤田嗣治など名だたるアーティストとのエピソードもどれもほのぼのしていて、「猪熊さん」の人柄が伝わってきます。

帰宅してびっくりしたのは、自宅にもう一冊あったことでした。

「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館 (MIMOCA)」に想いを馳せる、コロナ禍のきょうこの頃です。

アウトサイダー・アート

1945年にフランスの画家ジャン・デュビュッフェは精神疾患患者など美術の専門教育を受けていない人々が他者を意識せずに創作した芸術をアール・ブリュット、すなわち“生(き)の芸術”と名づけました。その後、1972年にイギリスの美術史家ロジャー・カーディナルにより、このアール・ブリュットに対応する英語として、そしてその概念を広げた「アウトサイダー・アート」ということばがつくられました。

これらの用語の創出に先立ち、1922年にドイツの精神科医で美術史家でもあったハンス・プリンツホルンは「精神病患者の創造」と題する本を出版しています。この本でプリンツホルンは450名もの精神病患者の5000点以上の作品をもとに、150枚以上におよぶ図版を示して創作物を紹介しました。

この日本語翻訳「精神病者はなにを創造したのか―アウトサイダー・アート/アール・ブリュットの原点―」(ミネルヴァ書房)では、プリンツホルンは彼らの創作における心的事象を

“自己以外の目的に支配されず、ただ独りで自己自身の造形だけを目指す衝動的な生命の過程”

と表現しています。

展覧会の会場では、この『衝動』を目の当たりにすることがあります。また、美術手帖で連載されている櫛野展正「アウトサイドの隣人たち」では、全国津々浦々にいる”表現せずにはいられない”隠れた芸術家たちが紹介されています。美術の専門教育の有無にかかわらず、このような過程を経て創られたものは見るひとを圧倒する力を持っているようです。

『櫛野展正と行く!アウトサイドの現場訪問 関東ツアー2』イメージビジュアル

ソール・ライターと回顧展

ソール・ライターのような写真家は珍しい。ファッション写真の分野で成功をおさめながら、1980年代以降、色彩とフォルムの純粋な美しさを捉えることを希求する「自分の写真」を撮ることだけに専念していく。彼の写真の被写体は、彼の自宅から歩いて行ける範囲の見慣れた日常の光景だ。斜め後ろから、そっと、愛おしむように掠めとられたニューヨークのストリート・シーン。そこにスナップすることの歓びが溢れ出している。  飯沢耕太郎(写真評論家)「展覧会へのメッセージ」より

一年ほど前に、映画「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」(原題:In No Great Hurry: 13 Lessons in Life with Saul Leiterを観ました。

晩年のソール・ライターに密着し、彼の半生を辿る長編ドキュメンタリー映画です。本人のインタビューとともに、彼がカメラを手に自宅周辺を散歩する様子や、自宅で猫と戯れながら写真を整理する姿が淡々と描かれています。

これまでのスナップ写真たちがどのように生みだされてきたのか、このドキュメンタリーを通して伺い知ることができたように思いました。猫と思い出の作品ともに暮らす静かな生活。”In no great hurry”ということばも心を打つのでした。

回顧展は2017年にBunkamuraから始まり、現在は美術館「えき」KYOTOで3/28まで開かれています。映画も3/5-3/11までの短い期間ですが、京都シネマで上映されています。

「イノセンス」と「未来のイヴ」

押井守監督のアニメ映画「イノセンス」は「Ghost in the shell/攻殻機動隊」の続編となる作品です。2004年に公開されました。この映画の冒頭はフランスの作家ヴィリエ・ド・リラダン「未来のイヴ」からの引用で始まります。

”われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか

「未来のイヴ」は科学者エジソンがひとりの恋する青年のために、理想の女性を模したハダリーという人造人間(アンドロイド)をつくりだす物語です。1886年に発売されたSF作品ですが、その色褪せない魅力により数多くの作品で引用され、わたしも大好きな小説のひとつです。

このハダリーという存在は、「イノセンス」だけでなく、岩井天志・小濱伸司により制作された自動人形映画「独身者の機械」(1998年に公開)や、伊藤計劃・円城塔のSF小説「屍者の帝国」(2012年)にも登場します。

フランスの批評家ミシェル・カルージュは1954年に出版した「独身者の機械」で、未来のイヴをはじめとした芸術作品について「独身者機械」をキーワードにして紐解く、独創的な考察を展開しています。

じつは、「イノセンス」の冒頭部分は、「未来のイヴ」そのものの邦訳ではなく、このカルージュの旧邦訳版「独身者の機械 未来のイヴ、さえも・・・・・・」から引用されているのです。このことは、「イノセンス」もまたカルージュの独身者機械論に大いにインスピレーションをうけて生まれた作品である証だと思います。

ルイジ・ギッリ「Atelier Morandi」

ジョルジョ・モランディ(1890-1964)は卓上の静物と風景を描き続けたことで知られるイタリアの画家です。そのモランディの亡き後、そのままにされていたモランディのアトリエをイタリアの写真家ルイジ・ギッリ(1943ー1992)が撮った作品シリーズがあります。ギッリはこのシリーズ制作中に急逝し、これがギッリの最晩年の作品となりました。

私がこの写真集「Atelier Morandi」をはじめて手にとったのは恵比寿にあったアートブック・インテリアショップのlimArt(現在はPOST)でした。15年以上前でしょうか。私のほかにお客さんもなく厳選されたアートブックが整然と並べられている店内、店内に響く木の床をゆっくりとあるく自分の靴音、そしてその本の写真から感じられる静謐さとどこか張りつめた雰囲気がシンクロして、妙に印象に残っていたのを覚えています。

その後、その写真集のことはすっかり忘れていたのですが、あるとき「自分が住みたい家」のイメージを問われてじっくり考えていたところ、limArtで手に取った写真集のことが突然古い記憶の底からよみがえってきたのでした。あの写真集でみたような部屋に住みたい、と。その本のタイトルもだれの写真集かも覚えていなかったのですが、現代のインターネット情報網は偉大です。すぐに「Atelier Morandi」という写真集につきあたりました。

ギッリの写真集が私の古い記憶からに掘り起こされてから3年ほど経ち、手元においておきたいと、機会があれば探していますが、残念ながらまだ再会できていません。ただ、須賀敦子全集の装丁にはこのモランディのアトリエ写真がつかわれ、いまでもときどき目にすることができるのが嬉しいです。

二笑亭奇譚

以前ご紹介した精神科医の式場隆三郎(1898-1965)は、現在はアウトサイダー・アートとよばれる作品たちを日本で先駆けて見出し、評価した存在でもありました。

式場は東京・深川に建てられた奇怪な個人住宅である「二笑亭」に興味をもちました。建築を取り仕切った主人は1936年に精神科病院に入院し、二笑亭は取り壊されることになります。式場らは解体前にこれを調査し、1938年に調査資料を「二笑亭奇譚」としてまとめました。

わたしの蔵書は1956年に三笠書房から出版された「二笑亭奇譚」です。価格が130円と表記されていることにも時代を感じます歴代の本も、それぞれ装幀がすてきですね。

2020年2月には、新装版「二笑亭奇譚」が中西出版から発売されました。

カフェと望月通陽「クリスマスの歌」

数か月前のことになりますが、以前から気になっていた少々遠いところにあるカフェに足を運んでみました。

黒い外観が存在感あるたたずまいで、のどかな田園風景のなかでひときわ目立っていました。建築家中村好文さんの設計だそうです。

窓にはめこまれたオブジェや真鍮のドアノブ、入り口のタペストリーなど、店内のひとつひとつにオーナーのこだわりを感じ、とても居心地よく感じる空間でした。香りよいおいしい珈琲とすてきな時間を過ごして、もっと長く居たいという思いを抱きつつ帰りました。

あとになって、このカフェの内装に染色家の望月通陽さんが参加されていたことを知りました。「クリスマスの歌」の歌詞とともに望月通陽さんの作品をたのしめる本が昔からすきでした。このカフェが私の琴線にふれたのもうなずけます。オーナーが建築家・染色家・陶芸家などさまざまな方とともに創り出したすてきな場所がこのままずっと続くよう、またいきたいと思うのでした。

くるみ割り人形

クリスマスシーズンになり、ラジオからはバレエ音楽「くるみ割り人形」が流れてくるようになりました。

いまではクラッシックバレエのクリスマス公演での定番となっている「くるみ割り人形」は、E. T. A. ホフマンの童話「くるみ割り人形とねずみの王様」を原作としてつくられた作品です。作曲はチャイコフスキーが手がけました(作品番号71)。

バレエの舞台のものがたりはクリスマス・イブの夜、少女クララが自宅で開かれたパーティに参加していた老人からくるみ割り人形をプレゼントされることから始まります。パーティが終わり、深夜12時を打つ時計の合図でクララは人形と同じ大きさになります。その後いろいろな出来事に遭遇しつつ、王子さまに変身した人形とともにお菓子の国へ…という夢いっぱいのキラキラしたストーリーです。

しかし、意外なことにホフマンの原作はかなり違った趣の作品です。入れ子構造になっているいくつものものがたり、複雑に張り巡らされている伏線、ダークな側面など、一般的な「くるみ割り人形」のイメージとは異なるものです。

私がもっているホフマン「くるみわり人形」の本はモーリス・センダックのイラストです。絵本「かいぶつたちのいるところ」で有名なセンダックは1983年初演のパシフィック・ノースウエスト・バレエ団の公演で舞台ステージと衣装のデザインを手がけました。ホフマン原作の作品の意図をくみ取り、グロテスクな要素も加えてつくりだされた新たなくるみ割り人形の世界観は、いまの舞台にも大きな影響を与えています。

攻殻機動隊

以前、フランス・アメリカの研究者とともに国際的な協同研究チームへ研究費を助成するプログラムに応募しました。その申請書の冒頭に、チームの代表者が提案した研究テーマの根幹をよくあらわしている以下の引用文を置きました。

“Just a whisper. I hear it in my ghost.” – Motoko Kusanagi, Ghost in the Shell

この「そう囁くのよ、私のゴーストが」というのは、「攻殻機動隊」で主人公である草薙素子が何度となくつぶやくセリフです。

「攻殻機動隊」は脳と外部デバイスを繋ぐBMI(ブレインマシンインターフェース)技術を物語の中心においた士郎正宗原作のSF作品です。1991年に発表されて以降、国内外のさまざまな作品に大きな影響を与えてきました。

その世界観は30年を経た現在でも多くのひとを魅了しつづけ、そして「攻殻機動隊の世界は実現できるのか?」という問いは研究者たちにとって未だに大きなテーマとなっている不朽の名作です。