ひとつの単語について考える

8月の東京滞在でルイジ・ギッリ展に行ったあとに寄ったのが恵比寿にあるアートブック・インテリアショップのPOSTでした。ルイジ・ギッリの写真集『Atelier Morandi』と出会ったのが20年前のこの書店(当時はlimArt)です。その所縁もあり、今回展覧会ついでに足を延ばしてみました。

店内はアートブックや写真集が所狭しと並び、気になった本を次々に手に取りながら、その時間を楽しんでいました。そのなかで目に留まったのが『ALL WORDS AND ONE』です。古い文献や、遺跡からの出土品のようなもの、絵画、オブジェ、こどもの絵、現代アート風の作品などが収められおり、どれも裸の人が仰向けになり大きな一本足を上げて手で支える姿をモチーフにしています。スタッフの方が「これはマーク・マンダースによるskiapodという実在はするけれどほとんど使われることのない単語についての社会実験的な本なんです」と教えてくださいました。

この本にまつわる彼の実験的な試みは次のようなものです。まず、無数に存在する単語の中からskiapodという神話に登場する伝説上の存在を指す言葉を選びます。架空の歴史を創作とともに構築し、さまざまなメディアを通じて拡散していく。やがて人々がその言葉を使うようになったところで、今度はそれらの虚構を社会から削除していく。そうして、その言葉が再び使われなくなる過程までを含めて、一つの実験とするのです。

本書には、彼と協力者たちによって生み出された、数々の skiapod を題材としたオブジェや絵画、アート作品が収められています。かつてはWikipediaのページまで作られ、あたかも古代から実在し、人々を魅了し続けてきた存在であるかのように振る舞っていました。この実験は、そうした捏造された情報を社会から「削除」することで完結したとされていますが、本当にそれは完全に消え去ったのでしょうか。

私たちがネット検索で目にする情報や、対話型AIが返してくる答えは、果たして誰の意図も介在していないものだと言えるのでしょうか。そんな問いを、アート作品を楽しみながら静かに突きつけてくる一冊でした。

そんな

「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」展

8月に東京都写真美術館で開催していた「総合開館30周年記念 ルイジ・ギッリ 終わらない風景」展を観てきました。ルイジ・ギッリ(1943-1992)はイタリアの写真家であり、今回がアジア初の個展だそうです。

ルイジ・ギッリについては以前このブログで触れましたが、画家のジョルジュ・モランディのアトリエを撮影したりシリーズがとても好きです。写真集を手にすることがもう叶わなくなったいま、今回の個展でこれら作品のうち数点を間近で見ることができたのがなによりの収穫でした。図録にも載っているので、自分の手元にこれらの写真が形として残るのが本当に嬉しく思います。

展示されていた全作品を通して「ルイジ・ギッリの写真はやはりいいなあ」と改めて思ったのです。自分が目で見てこれは素晴らしい、と思った3次元に存在する瞬間を2次元の写真に収めようとしても、その魅力は2割ほどしかそこには残っていなくて、その絵はもうどこにも存在しないわけです。(静止画さえ太陽光の差し方は刻々と変わっていくわけで。)それを、彼は専門知識と技術、そして思考によって物理的に制限された写真という枠組みのなかに、それらすべてを包括して表現しているように見えます。それが見るものに被写体の来歴に想いを馳せさせたり、鑑賞者自身の脳の深い場所にしまってある記憶を呼び起こしたりする力を持っている。だからこそ、いいと思うのだなと感じました。

その撮影技術だけでなく彼の写真への哲学を言語化したのが大学での講義をまとめた『ルイジ・ギッリ写真講義』(みすず書房、2014年)です。展覧会の図録の冒頭に掲載されている写真家のホンマタカシさんによるこの本にちなんだ寄稿も非常に印象的で、これも展覧会のもうひとつの収穫でした。

「動物と人間のあいだ」展

半年ほど前のことになりますが、世田谷文化生活情報センターの一角で開催されていた「動物と人間のあいだ」展に行ってきました。人類学を中心とした研究者やアーティストらによる、人々は動物をどうえがいてきたか?を問う展覧会であり、”えがく”は絵画やスケッチに留まらず、音楽や踊り、研究も含めた意味だそうです。

ここ数年、日本を含めた世界各地の人々の暮らしやその歴史に興味があり、関連書籍を読んだり機会があれば展覧会に足を運んでいたりしていたので、この展覧会を知人に教えてもらったときに、これは是非行ってみようと思っていたのでした。

大阪の民族学博物館に行ったときにも同じ印象をもったのですが、人類学や民族学は「学術」と「芸術」の距離が近く、ときに混じり合うことが可能な分野だと思っていて、その広さが魅力的なのかなと感じました。

山口未花子氏の展示では、カナダのユーコンに暮らす人が持っている”メディシン”と呼ばれる不思議な力の紹介がありました。メディシン・マンは病気を治癒したり、動物と波長を合わせて一部になることでその動物を操ったりそのものを通して物事を知覚できるそうです。

メディシン・マンもシャーマンに似た存在のように思われ、コミュニティの精神科も含んだ医師のような役割も担っており、治療対象の一つである「憑き」や「魔女」の中には精神疾患を思わせる内容があったりします。その点では私の研究分野である認知神経科学ともそう遠くはないのかも知れません。クロード・レヴィ=ストロースは『構造人類学』のなかでシャーマニズムと精神分析との相違について以下のように述べています。

精神分裂病の治療においては、医師が作業を行い、患者がその神話をつくり出す。シャーマニズムの治療においては、医師が神話を提供し、患者は作業をなしとげるのである。

メディシン・マンが動物や霊界と交歓するときに太鼓を用いると書かれているのも、生理学的に理に適っており興味深いです。ある一定のリズムを持つ聴覚刺激は脳でもリズムを発生させ、音を聴いている最中の脳の活動を変化させる効果があります。また、音は身体の動きを制御する脳の領域を賦活することも知られています。暗い空間の中、光と音の刺激で身体を動かしながら一種のトランス状態に入るのは、クラブなどで体験したことがある人もいるかも知れません。これに神経伝達物質のふるまいを少し変える薬草などの助けがあると一層の相乗効果があるはずです。物理的な刺激や薬学的な作用により嗅覚や聴覚などがいつも以上に研ぎ澄まされて熊の気配をより鋭敏に知覚したりすることができるようになる可能性があります。とはいっても誰でもができるわけではなく、資質をもったものが長年の経験と修練を経て、コミュニティの信仰を得ることでようやくメディシン・マンとなるのでしょう。

大西侑香氏の展示では、西シベリアのハンティ人は動物の毛皮をブーツや外套などの防寒具として加工して日常生活に利用していること、人々がそれぞれのブーツや外套が生前どんな動物の毛皮だったのか、どこでハントしたのかなど詳細をずっと覚えていることが紹介されていました。

太古から人間は誰か身近な人や自らがつくった衣服を身につけて、表皮の保護と防寒、そして装飾をしていました。現在はどこか遠い国で大量生産された服が安価で店頭に並び、容易に手に入れることができます。冷暖房の効いた清潔な現代では衣服はもはや社会的なシグナルが主な機能であり、その多くが購入されることなく次の流行に押し出され、廃棄されていきます。そのような社会に疑問を持ちつつも、ストーリーのある誰がつくったか自明な服はハイブランドの作品やオーダーメイドに限られ庶民の懐には厳しく、自ら仕立てる技術も時間も情熱もない者たちは、妥協の産物を毎日纏って暮らしているのです。ただ、そんな既製品の中でも「このジャケットは大事な発表のときに着て行ったもの」とか「このストールはおばあちゃんに買ってもらったもの」などそれぞれにストーリーがあるはずで、そういった記憶を大切にしながらお気に入りの服やものに囲まれながら豊かに生きたいと、この展示を見ながら思ったのでした。

『百年の孤独』と『「百年の孤独」を代わりに読む』

年末年始休暇中に『百年の孤独』を読み終えました。

ガブリエル・ガルシア=マルケスのこの本が新潮文庫から刊行されたのが2024年6月26日でした。この発売日から数日後、私は大学時代を過ごしたある地方都市にいました。

実家があるわけでもなく、卒業後にだいぶ離れた別の街に職を得ていた私は、ちょっとした用事ができ、数十年ぶりにこの地を訪れたのです。

市の中心部にある書店は大学時代と変わらない佇まいで、それまで脳の奥底で眠っていた記憶たちがするすると浮かんでくるのをひとり味わっていました。

なんのあてもなく本棚を眺めて、ああ、この土地ならではの本がこの一角に集められているのだな、とか、やっぱりどこに行っても売れどころは同じだよな、とか思っていたら、文庫コーナーに並んでいる『百年の孤独』を見つけました。

おお、これが噂になっている本ですか、と手に取り、表紙のジョセフ・コーネルの箱みたいなかっこよさに痺れつつ会計カウンターに持って行ったのでした。

出先で本を買ったり読んだりするのはエピソード記憶として強力で、パラグアイで読んだ「フロスト」警部シリーズだったり、伊香保温泉の旅館で読んだ「痴人の愛」だったり、いまだにその旅行の記憶とともに残っています。

後日、伴走によさそうとの『「百年の孤独」を代わりに読む』を手に入れて、別の本に移り気しながらもこの2冊を1章ずつ、少しずつ読み進めていました。働いていると本が読めないのはみんなが実感するところで、年末の休みに入ってからはあっという間に完走したのでした。

おそらくラテンアメリカのどこかにある土地、マコンドを開墾していく一族の歴史と数奇な運命を読み手と共に長い時間をかけて辿る物語です。ガブリエル・ガルシア=マルケスの風変わりな著者写真であったり、一家で名前を共有するするために登場人物が誰が誰だかわからなくなって時々参照する、でもあまり参考にならない冒頭の家系図だったり、エピソードに突然、違和感なく挟み込まれる超常現象など話題が尽きない本でした。

ラストで読者だったはずの自分が一気にこの一族の物語に取り込まれ、もはや傍観者ではなく当事者なったような感覚は、子どもの頃にミヒャエル・エンデ『はてしない物語』での体験を彷彿とさせました。自身も研究者として論文を書いて出版することで生きる身ではありますが、伝えたいことをなんらかの文章として形に残す行為の尊さを改めて感じるシーンでもありました。人ひとりが生きる時間の短さと儚さをに圧倒されつつも、それでも確かにそこでその時代を生きていた人たちがいたことに思いを馳せながら。

ブックサンタ2024

今年もブックサンタに参加してきました。昨年はじめて寄付をしたときの様子はこちらのブログに書きました。ブックサンタとは書店で本を購入して「ブックサンタです」と店員さんに預けることで、クリスマスのお祝いをすることが難しい家庭の子ども達に届けてもらうプログラムです。前回は絵本を選んだのですが、あとになって絵本など幼児向けの本の寄付は多いけれど小学生向けの本が少ないという公式アカウントのつぶやきがあることを知りました。そこで、今年は以下の2冊を選んでみました。

「ファーブルの昆虫記」著:アンリ・ファーブル 訳:中村浩・江口清、講談社青い鳥文庫

「きまぐれロボット」著:星新一、‎ 理論社

生き物好きは基本、ファーブル昆虫記派かシートン動物記派にわかれるのではないかと思っています。私はシートン派でした。こどもの頃、なぜか応接間に置かれていたシリーズのオオカミのロボや、クマのワーブの話を、あまり座りなれない大きな椅子の上で、手に汗握りつつ読んだことを覚えています。残念ながらシートン動物記が書店に置かれていなかったので、同じ「理学・古典」枠としてファーブル昆虫記を選びました。

昔は推理小説ばかり読んでいて、小学生時代は江戸川乱歩の少年探偵、怪盗ルパン、中学からはシャーロック・ホームズ、ポアロの各シリーズを制覇していました。内科医や研究者の仕事はある意味探偵に似ていると思っていて、これらの本と付き合った時間が私の根っこを形成していると思っています。一方で、こどもの頃にSFと呼ばれるジャンルの本を全く読まずに育ってしまいました。大人になって、SFのおもしろさに目覚めたのですが、多感な思春期にジュール・ヴェルヌや小松左京を知っていたらまた違う現在地があるような気がします。そんな昔の私自身と日本のどこかにいるだれかへ、星新一の短編集を贈ることにしました。経済的な理由で図書館に返さなくていい自分の本が所有できないお子さんもたくさんいると聞きます。そんなこどもたちの手元に届いて、気に入ってもらえると嬉しいです。

「スキャナー・ダークリー」と「裸のランチ」

ここしばらく、ひたすら映画を観ていました。とある動画配信サービスの無料トライアル期間だったのです。いままで気になっていたけれど他のサービスでは観られない作品がありましたが、ここにはたくさんあって、夏休みだし無料期間中に全部観てしまおう!と思ったのです。でもお気に入りリストにはまだまだたくさん入っているし、本と同じで読んだ、観た作品がまた別の作品を連れてくるのはいつものことで、継続でサブスクリプト契約したいなと思い始めています。(無料トライアルでちゃんと潜在顧客が釣れたようですね…)

『スキャナー・ダークリー』はフィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』を原作としたリチャード・リンクレイター監督の映画作品です。主演はキアヌ・リーブスで、すべての映像は実際に演技をした俳優さんたちの映像をなぞってアニメーション化するロトスコープという手法がとられています。この映画では、薬物中毒者に特有の小さい虫が身体中を這う幻覚シーンや、麻薬捜査官が匿名性を保つために着ている特殊なスーツだったり、この手法がとても効果的に使われています。一方で、俳優さんたちは実際に演技をしている実写をベースとしているので、キアヌ・リーヴスのちょっと内股な歩き方やロバート・ダウニー・Jrのなど、通常のアニメーションよりリアリティある映像になっているため、自分がいま見ているシーンは現実なのか、登場人物がみている幻覚世界なのか、観ている自分も巻き込まれてふたつの境界が曖昧になっていく様子がうまく表現されていると思いました。

原作はディック自身の薬物使用の体験を踏まえた自伝的小説でもあります。エンドロールで淡々と流れてくる薬物使用により後遺症を抱えた、または死に至った友人だちの名前は、SFの世界の話だったものを現実の問題として突きつけてくるものでした。

もうひとつ、作者自身の薬物使用体験との関りが深い映画を観ました。『裸のランチ』はウィリアム・バロウズの小説をデビッド・クローネンバーグ監督が再解釈して映像化した作品です。害虫駆除を生業としながらも薬物とアルコールに依存し、現実と幻想の狭間で小説を書き、妻をウィリアム・テルごっこに誘う主人公にはバロウズ自身の人生が投影されています。原作の猥褻さにクローネンバーグらしいグロテスクな異形のものたちが加わり、情動回路をがつんと刺激してくる映像が不快感をもたらします。昆虫のような見た目なのに叩き潰すと赤い血がでたり、肛門様の器官をつかってしゃべったり(なんだか星新一『親善キッス』を思い出したり…)することで、妙な人間っぽさがあるのです。ムカデやゴキブリが主な脅威であるのも薬物乱用による神経伝達物質の攪乱がみせてくる悪夢、という感じがしました。主人公視点では巨大昆虫の死体が入っている袋のなかは、第三者視点に切り替わると薬瓶などのガラクタがいっぱい入っているだけだったり、急に現実世界に戻るのが怖かったですね。一体、私たちはいま何を見ているのか?幻想世界?現実?となるのが『スキャナー・ダークリー』と共通して怖いところでした。この映画、オープニング・クレジットがすごくカッコいいです。フォントといい、色使いといい良いのです。印象に残るのはホラー要素がつよいクリーチャーたちですが、それを周りで支えるスタイリッシュな映像もクローネンバーグの魅力なのかもしれません。

薬物使用による著名人の訃報がきょうも報じられています。アルコールや薬物など中枢神経系に作用する物質への依存症は、身近な問題としていまここにあることを突き付けた2作品でした。

SOUL’d OUTと思い出話

みなさんはSOUL’d OUTをご存じだろうか。2000年代に数々の楽曲をリリースし、2014年に解散した3人組のヒップホップユニットである。解散からもう10年も経つのだが、やれ誰かがNHKのど自慢で歌って鐘を鳴らしたとか、どこかのカフェの新製品が売り切れたのをSOUL’d OUTと呟いたとか、筒香~~~と歌ってる曲があるとか、数年ごとに人々の話題にのぼってくる。

ダサいとか散々いわれつつも、コアなファンは多い。「Bling-Bang-Bang-Born」でこどもたちの心を掴んだCreepy NutsのMC、R指定もSOUL’d OUTがきっかけでヒップホップを聴き始めたと公言しているし、R指定によってときどき披露されるDiggy-MO’モノマネは完成度が高く、SOUL’d OUT愛に溢れている。

私は大学時代、ストリートダンスに熱中していた。フリーターの子とユニットを結成してJAZZ HIP HOPと呼ばれる部類に入るダンスを踊っていた。駅のコンコースや夜の病院入り口で窓ガラスに全身を映しながら彼女と踊っていた日々の傍らにあったのが小型ラジカセであった。電池で駆動するその小型ラジカセに挿入されたカセットテープからはいつでもどこでも踊れるように、お気に入りの曲たちが流れていた。

そんな東北地方の小さな市にRHYMSTERがライブをするという大ニュースが駆け巡り、私の所属するダンスチームの数組が前座で踊る貴重な権利を得た。ライブでは舞台袖で出番を待っていたとき、一番最初のユニットが踊っているのをぼんやりと見ていた記憶と、サインが書かれたTシャツが残っているだけである。あれだけ鮮烈だったはずの出来事は、固定化されることなく私の脳を通り過ぎていったのである。

話が逸れたが、SOUL’d OUTはそういった環境のなかで自然に耳に入ってきていた。あまり熱心に聴いていたわけではない。J-RAPをよく聴いていたのは中学生のときだったし、彼らが活動をはじめたときは、アメリカのR&BやHIP HOPばかり聴いている時期だった。わりと最近になってまた気になり、少し前まで連日リピートするくらいまでには嵌ったのである。

ウェカピポだったりことばのキャッチーさとそのリズムと、他のグループには代えがたい「SOUL’d OUTらしさ」が10年経っても再結成を熱望される所以なのだろう。ライブで突然、Diggy-MO’がピアノを弾きだし、直前のラップとは打って変わって繊細な音を奏でたりするのもポイントが高い。いわゆる、ギャップ萌え、というものだろうか。ちなみに、奥田英朗の小説「ララピポ」はSOUL’d OUTのメジャーデビュー曲「ウェカピポ」の影響を受けているのだろう。経緯はしらないが、映画「ララピポ」の劇中歌をDiggy-MO’が担当しているのは偶然ではない、と思う。「ウェカピポ」は名曲だ。なにはともあれ、私はSOUL’d OUTが好きである。

アルバム「ALIVE」

アントニオ・ダマシオと寺田寅彦

最近、車で移動中にPodcastを聴いています。その中のひとつであるBrain Scienceには著名な研究者のトークがあり、興味を持てる神経科学のトピックが多くて気に入っています。先日はアントニオ・ダマシオのトークを聴きました。ダマシオは1991年に提唱した「外部からの情動刺激によって引き起こされる身体反応の信号が意思決定に不可欠な役割を果たしている」というソマティック・マーカー仮説で有名な、ヒトの感情や情動、意識などを研究している神経科学者です。

その回のなかでダマシオが「今日どんどんアップデートされていく生物学的知見によって意識のハード・プロブレムが解決できるのを希望をもって見守っている」というようなことを言っていました。意識のハード・プロブレムとは、物理的な脳からどのようにしてクオリアなどの心的現象が生まれるのか、またその心的なものは物理的な脳とどのような関係があるのかという問題です。収録時は80歳すこし手前だと思うのですが、その学術的好奇心が絶えることなく、考えつづけ、そしてあとに続く若い研究者たちにその未来を託す姿がとても印象に残りました。

私もありがたいことにまだまだ神経科学への興味は尽きず、たくさんのことを学んで少しずつ自分の中の知識が増えてくるにつれて、更にその先にわからないことや知りたいことがどんどん湧き上がってくるのを日々実感しています。それは研究者としては幸せなことだなと思っています。80歳近くなってもこのような科学的疑問への関心を持ち続けながら生きていくことが自分の次なる目標かな、とダマシオのトークを聴きながら改めて思ったのでした。

私たちには日々、数えきれないほどの出会いがあります。それは人だったり、本だったり、映画や絵画だったり、とても短いことばだったりします。長い人生の流れのなかで形を変えていく自分が、それらといつ出会い、出会ったときにどう受容するか、そのひとつひとつがまた自分を形づくっていくのだと思います。

物理学者の寺田寅彦は、数々の優れた随筆を残しています。そのなかのひとつ「科学者とあたま」は、初めて読んだときの溢れる感情を忘れることができません。頭のよい研究者が界隈にたくさんいるなかで、ポスドク(博士号を取得したあとの研究員)として一歩を踏み出したは良いけれど、自分が研究者の道を進んでいくことに自信が持てずに悶々としていたころでした。この随筆を読んで、「ああ、自分は、自らの足で実際に富士山に登りながら、道ばたやわき道にあるものに気を取られつつ自分のペースで進んでいけばよいのだ」と、頭のわるさを含めて科学者として生きていくことを肯定してもらったように感じたのです。今でも、自分の研究者としての原点がここにあると思っています。

Harvard university, FAS Division of Scienceより

「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」豊田市美術館

先々月、豊田市美術館で「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」展を観てきました。15世紀から18世紀のヨーロッパでつくられていた、世界中の珍しいものを陳列した部屋はWunderkammer(驚異の部屋)と呼ばれ、これが現在の美術館や博物館の前身であると考えられています。このたび、豊田市美術館の横に豊田市博物館がオープンするのに伴い、企画されました。

田村友一郎の映像作品にでてくる「チタン化したわたし=TiME」というキーワードには、身体と精神の破壊とその再生について切り込んだ映画『TITANE/チタン』を思い出したりしました。この映画の監督であるジュリア・デュクルノーの母親は婦人科医、父親は皮膚科医で、幼い頃から両親の医学書を眺めては身体への興味を募らせ、『悪魔のいけにえ』やデイヴィッド・クローネンバーグ作品を観て育ったそうです。これを知って、ああここからこの映画が産まれたのだ、深く納得したことを覚えています。

一番興味を惹かれたのはタウス・マハチェヴァの「セレンディピティの採掘」でした。遠隔地の他者と感覚を共有したり、コミュニケーションをとる装置や自然との関わりを図るデバイス、”セレンディピティ”を発掘された真鍮塊として象ったものなど7点のオブジェクトのコンセプトと、これらを形にして常に身につけられるように具現化したもの、そして制作風景の映像からなる作品です。これは1971年にロシアで開催されたソチ精神技術会議にて、科学者たちによって提案されたアイディアを現代の視点から発展させた、という設定だそうです。シェルドレイクの「形態共鳴仮説」を伺わせる作品もありました。装置そのものは錬金術的、超自然的な話なのですが、一方で自然現象を可視化したいとか、遠く離れたところからも他者の気持ちを知り交流したい、など先端科学で目指そうとしていることと重なり合う部分もあるように思い、印象に残りました。

予告チラシで気になっていた映像作品のプレビューが2つとも実際には展示されておらず、別の作品に差し替えられていたのは残念でした(ニホンザルがビデオカメラを持って立っている映像だったので、霊長類研究者としては気になって是非、観てみたかった)。チラシは展覧会開催日のずっと前に作成、配布されるので仕方がないのかもしれません。展覧会カタログの写真がすごく良くて、何気なく奥付をみると、「展示風景写真 ToLoLo Studio」とありました!ToLoLo Studioさんは我が家が完成したときにそれはそれは素敵な写真を撮ってくださった写真スタジオです。こんな形での思いがけない再会を嬉しく思いました。

企画展がメインですが、常設展もまた観てきました。以前このブログでも言及したヨーゼフ・ボイスやクリスチャン・ボルタンスキーの作品はいつ見ても「これいいなあ、好きだなあ」と思うのでした。

展覧会に訪れた時点ではまだオープンしていなかった豊田市博物館は、丘のうえに建っているのを仰ぎ見ることができました。建築家・板茂の設計です。一方、豊田市美術館は建物が建築家・谷口吉生、庭園はランドスケープ・アーキテクトのピーター・ウォーカーの設計です。同行者は、展覧会自体はあまり自身の興味にあまり刺さらなかった様子でしたが、美術館と博物館の建築デザインの組み合わせについては思うところがあったようです。ひとつの展覧会にいっても鑑賞者それぞれにいろいろな見方や得るものがあっておもしろいなと思ったのでした。

豊田市美術館

サタンタンゴ

7時間越えの超長編映画として知られるハンガリーのタル・ベーラ監督の1994年公開作『サタンタンゴ』を観ました。降りやまない雨とぐちゃぐちゃの地面、人々は常に貧しく、あらゆることに不満を抱えています。そんなハンガリーの田舎で繰り広げられる人間模様を描きだした作品です。

ふつうの映画ならそろそろ大団円となる時間帯にまだ何も始まりません。でもよくよく考えるとわたしたちの生活も、ストーブの前で佇んだりひたすら歩いたり窓の外の雨をただ見ていたり、そんな時間もあるわけです。次々と何かがはじまって何かが起こって場面がかわって2時間でうまくすべてが収まる。そんな「ふつうの映画」では得ることができない、現実としての人々の人生が長回し撮影によってリアルに鑑賞者に迫ってくるのでした。

Wow, you’re a better Hungarian than me.

これは私が『サタンタンゴ』を観た感想をハンガリーの共同研究者に送ったところ、彼から送られてきたメールのなかの一文です。何度も観ようと思いつつ、未だ鑑賞に至っていないとのことでした。私が黒澤明監督の作品をほとんど観ていないのと同じかもしれません。

タル・ベーラは先月、日本に滞在し福島で映画制作のマスタークラス「FUKUSHIMA with Béla Tarr」や上映会などをはじめさまざまなイベントが開催されました。今月には名古屋で一度は廃業した「シネマテーク」がクラウドファンディングを通じて新たに「ナゴヤキネマ・ノイ」として再出発をしました。そこで2000年公開の「ヴェルクマイスター・ハーモニー」4Kリマスター版が上映される予定だそうです。シネマテークはこのブログにも書いた『チロンヌプカムイ イオマンテ』を観にいった思い出のミニシアターです。名古屋でミニシアターの灯火が消えないようにときどき足を運びたいと思っています。